前回のあらすじ
ウズベキスタンの観光といえばここ。日本でいう京都的存在、青の都 サマルカンド の街歩きになります。
サマルカンドとアミール・ティムールについて
街に繰り出す前にざっくりこの一帯の歴史について私の1観光客レベルの知識を書いておきます。Wikiなどで読んだ情報を適当にまとめてます。
アミール・ティムールはサマルカンドを語るうえでの最重要人物です。一言でいうとサマルカンドを作った人ですね。 今後出てくるサマルカンドの史跡はほぼアミール・ティムールが作ったもしくは関わったものになります。
まず、ティムールの時代のはるか昔、サマルカンドはイスラム化はされておらず、シルクロードの要衝として発展していました。サマルカンドは13世紀にチンギス・ハンの侵略によって破壊されてしまい、都市としての姿はなくなったそう。
その後14世紀、中央アジアは遊牧民族やらイスラム勢力やらの群雄割拠の時代でした。 台頭してきたのが没落貴族出身のアミール・ティムール。軍事において天才的だった彼は近辺の部族を支配する一大勢力になり、ティムール朝を成立させました。
彼がティムール帝国の首都としたのがサマルカンドで、世界でも屈指の大都市として繁栄を誇りました。サマルカンドのいろいろなモスクはこの時代、およそ15世紀のものです。
青の都として有名なサマルカンドですが、青なのはティムールの好みだそうです。
モスクを建設したということは当然イスラム教なのですが、モンゴル帝国の要素もティムールの時代には色濃く残っていたとされています。遊牧民族の人々もこの帝国には多くいたそう。
なお、ティムール朝は16世紀の前半にシャイバーニー朝に滅ぼされているためそこまで長命な帝国ではなかったようです。ティムール自身は突出したカリスマだったのですが、それを引き継げる有能な後継者が不足していたと考えられます。
なお、このシャイバーニー朝はウズベク人の王朝で、現在のウズベキスタン共和国の人の大半はどちらかというとこのシャイバーニー朝に近い人々ということになります。(つまりティムールの敵側)
その後ウズベク人の3王国(そのうち一つのヒヴァ・ハン国の首都が、前日旅したヒヴァ)などを経てロシア帝国、ひいてはソビエト連邦の一部とされてしまうわけです。
当時ソビエト側としてはティムールへの評価は否定的でした。そのソ連崩壊後、ウズベキスタンという国の英雄としてティムールが持ち上げられている、ということらしいです。 前述のとおりティムールはウズベク人の先祖ではないので若干不思議ですが、敵の敵は味方的なことなんでしょうか。SHIRANKEDO
ウズベキスタンに限らず中央アジア一帯はモンゴル系、テュルク系、ウズベク人、ロシア・ソビエトなどなど様々な勢力が様々な境界線を引いてきて、現在のウズベキスタン共和国ができたという感じです。
世界史選択ではなかったのでちゃんと勉強はしていないのですが、このあたりの歴史を覚えるのはかなり大変そうですね。
詳しく知りたい方は調べてみてください。
参考URL: ウズベキスタン共和国
ある一つの土地を異なる民族が立ち替わり入れ替わり支配する、というのは日本史的にはなかなかない(先史時代・大東亜帝国はともかく)ので新鮮です。
まあ、豊臣が統一したり徳川が統一したり…という支配する氏が変わっていく戦国時代を捉える感覚に近いでしょうか。 個人的にはサマルカンドの史跡があまりにもティムールなので、江戸(や駿河)における家康的存在なのかなと置き換えて理解しています。
こういった地続き国の人たちのアイデンティティは土地に紐づくのか民族(血統)に紐づくのか、みたいなのもすごく興味深いですね。
そもそも民族という区切りも、混血が容易に起きそうな地続きの土地においてどこまで確かなものだったんでしょう。
などと考えてみると、元寇でモンゴルの侵略が成功しなかったのって日本にとってものすごくデカかったんだな…、など外の他民族に侵略されなかった島国JAPANの特異な立ち位置というものも浮き彫りになります。
(「島国」であるということがものすごく大きな意味を持っていたのだとすると、じゃあブリテンも同じじゃない?と思うのですが、ブリテン島は大陸から結構侵略を受けているんですよね。去年イギリス旅行をしたとき、ドーバー海峡からの敵を警戒するためのドーバー城を見に行って学びました。それは大陸からの距離が日本のそれよりだいぶ短かったからだと思います。)
ビビハヌム・モスク
ということで話が逸れましたが、ホテルから見えていたビビハヌム・モスクに訪れます。
ビビハヌムというのはティムールの奥さんの名前。ティムールが建造を命じたもので、15世紀当時としてはかなり急ピッチで建設が進められたそうです。
ビビハヌムさんが埋葬されているなどではなく、役割としてはシンプルにモスク(礼拝のための施設)だと思われます。
とにかくでかいです。
私が圧倒されて、日本の遺跡にこういうスケールの大きなものってないよな~と呟いたら、「姫路城とかもでかいやんけ」とつっこまれました。たしかに。
とはいえ、上にいくにしたがって細くなる日本の城に対し、この辺の建築物は直角にスコーンと聳え立っているので押しつぶされそうな威圧感がやはり違うと思います。あと1パーツごとがでかい。なのに装飾は細かい。すごい。この圧倒的存在感は現地じゃないとなかなか味わえないですね。
とまあ圧倒されるのですが、これ、実はソ連時代に再建されたものなので15世紀から残ってるそのままのものではないそうです。 Wikipediaに20世紀初頭の姿が載っていますがたしかに特に上層部がボロボロです。でも今の姿と共通する箇所も結構ありますね。
修復したんだな~というのは、このような内部を見てみてもわかりやすいです。
ソ連時代序盤は、そもそもこのモスクは廃墟同然となっていたらしいです。ロシア正教会擁するソビエトがわざわざモスクを再建してあげたというのは一瞬ハテナなのですが、調べてみると他宗教への寛容さを示すため、という政治的判断もあったのだとか。
シヨブ・バザール
このビビハヌムモスクのすぐ隣というなんともいい場所にバザールがあります。 何気にビビハニムモスクより歴史があり、2000年続くものなんだとか。
観光客向けのお土産屋さん・スパイス屋さん・ドライフルーツ屋さんもたくさんありますが、奥の方には現地の方向けの生鮮食品・日常雑貨のマーケットがありました。売っている野菜や果物でそこまで変わったものはなかったかな…?
今後もモスクに行くことを考えてコットンのスカーフを調達。10万スム(1000円程度)だったでしょうか。 なお、ウズベキスタンで買い物をするとかなりの確率でplastic??と聞かれます。何?と思ったらビニール袋のことでした。もちろん日本と違って無料でもらえます。
立ち止まって商品を見ているとたいてい話しかけられるので、そういうのが苦手な方はなるべくスピーディに見ましょう。(笑) でもなんかウズベキスタンの人々、全体的に外国人に慣れてなさそうというかシャイというかあんまりグイグイはこないかも…?
シャーヒ・ズィンダ廟群
次は暑い中ですがシャーヒ・ズィンダ廟群に向かいます。サマルカンドのど真ん中からは若干離れます。 といってもシヨブバザールから徒歩20~30分ほどだったでしょうか。しんどければYANDEXを使ってもいいかなという距離です。
シャーヒ・ズィンダはティムールの一族が葬られているお墓の集まり。そこもタイルの装飾が非常に美しいのでレギスタン広場に並ぶ観光スポットです。 丘の傾斜の中にありますので、ビビハヌムが若干小高い場所にあるのもあいまって歩いて向かうとややアップダウンがあるでしょうか。
到着すると、入場料を払って階段を登っていきます。
このような廟がいくつか立ち並ぶので、中に入ったり外装を眺めたりしつつ進んでいきます。
最奥部に3面タイルに囲まれた場所があります。
この写真でいう右側の建物からさらに奥に入れる入口があります。
ただしこの中は本当の礼拝空間になるので撮影は禁止です。 おそらくちょうど礼拝時間に入ってしまったっぽく祈りの言葉的なものを唱える集団に巻き込まれました。(まあ、こちらがお邪魔している立場だが)(なんとなく合わせて手の振りとかやった)
なお、脇道に入るといい感じのちょうどさっき見てきたビビハヌムを望めるいい感じの場所がありました。
青の密度、鮮やかさ、サマルカンドでもいちばんの美しさといって過言ではないと思います。
とまあ映えばかり載せててもアレなので、謂れを確認しておきます。
Wikipediaより。
シャーヒ・ズィンダ廟群には9~14世紀及び19世紀に建設された儀式用の建築物と霊廟の集合体である。シャーヒ・ズィンダ (生ける王を意味する) という名前は預言者ムハンマドのいとこであるクサム・イブン・アッバース (Kusam ibn Abbas, Qassim-ibn-Abbas)が7世紀にイスラム教布教のためアラブ人によるサマルカンドへの侵攻が行われた時期にこの地を訪れ、同時期に埋葬されたという伝説と密接に結びついている。一般的に知られている伝説においては、彼はその信仰のため斬首されたが、自分の首を拾って地中深い井戸の中にある楽園の庭に行き、現在でも生きているとされている。
シャーヒ・ズィンダ廟群は11世紀から19世紀までの9世紀の間に作られており、現在では20以上の建造物の集合体となっている。
ティムールの親戚が葬られてると思いきや彼より古い時代の建造物もあるんですね。※実際にティムールの妻なども葬られています
前述、最奥部から入ることができた撮影禁止の建造物はクサム・イブン・アッバース(ムハンマドの従兄)が眠る霊廟で、ムスリムにとって大きな意味を持つ場所ということです。これが11世紀、つまりティムール以前の建物ってことですね。(ということを事後に調べて知る…すみません)
ランチ(またプロフ)
お昼の時間帯になったので近くのレストラン「Samarkand plov Otash osh」に向かいます。その場でGoogleマップで調べたプロフ専門店です。
専門店ということでメニューの選択肢がなく、問答無用でプロフが出てきます(プロフのサイズと前菜は訊かれました)。なんかそういうお店っておいしそうですよね。
実際出てきたのはこちら。
特にフリとかでは本当においしかったです。柔らかいけどがっつりお肉、パプリカ(写真内、黄色の細長いやつ)、レーズンぽい果実がいい塩梅に油の中でいい旨味を出し合いながらコラボレーションしていました。
後日出会うウズベキスタン人のジョン氏に教えてもらうのですが、この辺のプロフはアマニ油を使っていて旨いんだそうです。美味、というより旨い、と評したいこの料理。
なお、この国トマトめっちゃ出てきますね。野菜=トマトくらいの勢いです。大半のごはん処でこんな感じのサラダが出てきます。
酸味が強いですが暑さに疲れた身体に沁みます。
あとお茶も出してくれます。
お値段は覚えていませんが(日本人的には)お安かった記憶です。ローカルの人も結構いましたし。
どうでもいいのですが、お店のテレビで流れていたミュージックビデオにサンタコスのおねえちゃんたちが映っていて、イスラム圏でもこういうのありなんだ…とびっくりしました。(笑)
レギスタン広場
暑〜い時間帯をホテルで休憩しながらやりすごし、夕方になりました。
本日最後にサマルカンド観光の大本丸に向かいます。
レギスタン広場は巨大モスク(+メドレセ)が3つ集まる大広場です。
フリーで入れると勘違いして変なところから入場しようとしてしまったのですが、正式なチケット売り場が広場に向かって左手側にあります。
入場しなくてもここまでは来れます。
入場するとこんなのが撮れます。
とまあ観光客がはしゃぐのはそうなのですが、結婚写真を撮っている現地カップルもちらほら。
東京人における東京駅のようなポジションですかね。ウズベキスタン人もやるのね~と親近感。(我が家も横浜の某映えスポットにて実施)
この3つの大きな門からそれぞれ中に入ることができます。
広場向かって左:ウルグ・ベク・メドレセ
その名の通り、ウルグ・ベクが建造を命じたメドレセ。彼はティムールの孫で天才天文学者という設定盛りまくりのつよつよ人物でした。サマルカンドにおいてティムールの次くらいの重要人物です。
門構えはこんな感じ。
門から入るとこんな感じです。
ウルグ・ベクのもとに集った学徒たちが学ぶ場だったようです。メドレセ(神学校)とはありますが神学というより数学や天文学が盛んだったのではないかと。
ウルグ・ベクの時代のイスラム世界の学術の発展は目覚ましく、ヨーロッパに紹介され危機感を持たれるレベルでした。ここもとても興味深い歴史なのですが、翌日に予定するウルグ・ベク天文台のパートで語ります。
この中もお土産店だらけなのですが、行きたかったのがタイル工房です。
地球の歩き方にもオススメと推奨されていたのでおそらく日本人客が多いのでしょう。(とはいえウズベキスタンで日本人観光客をそこまで見てないが…) どうやらレギスタン広場がJICAと関わりがあったようなので、そこのご縁なのか日本のテレビ番組で取り上げられたり何だりで日本に親しみを持ってくれているようです。
日本語学習中という見習い(?)の少年がおり、2階の工房に案内してくれました。
写真を撮るのは自重しましたがその場で粘土を切っている職人さんがおり、タイルで描きたい絵の設計をし、粘土に下絵を描いて、カッターで切って、焼いて、組み合わせて・・・という工程を主人っぽいおじいちゃんスタッフの方が説明してくれました。
コバルトや銅を含んだ釉薬で青の色付けをしているそうです。
のちに調べると、青といえば思いつくラピスラズリ(顔料)はとても貴重でモスク全体に敷き詰めるような使い方はとてもできないのですが、コバルトなどの釉薬として青を出す素材であれば比較的に手に入りやすかったみたいですね。
ということでこんなのを買いました。
この工房については本職?のブログに詳しいです。 www.arukikata.co.jp
広場向かって右:シェルドル・メドレセ
シャイバーニー朝に入ってから作られたもののようなので、ティムールの時代にはなかった建造物ですね。 張り合うように建てられていますが、ティムールやウルグベクと変わらぬ威光を示したかったのでしょうか。
このトラっぽい動物はいろいろなおみやげもののパッケージなどでよく見かけます。たしかに3つのメドレセの中で最も印象的なモチーフかもしれません。
広場中央:ティラカリ・メドレセ
こちらも門から入ると中庭のような場所に入ります。
中のモスクの天井が見どころです。
なお、3つを回っていると今どのメドレセにいるんだっけ?がわからなくなってきます(笑)。写真を見返してもどの建造物の写真だったか記憶が危うい・・・(なのでここの写真は少なめ)
とはいえ1.5時間程度いたでしょうか。レギスタン広場を後にして夕飯に向かいます。
夕飯
ホテル至近のレストランにふらっと入りました。
プロフはたくさん食べたので、さすがに他の物をいただきます。
そこはかとなく雑な店構えだった(&我々(外国人)が入っていったら戸惑われた)のであまり期待していなかったのですが(笑)、どれもおいしかったです。特にラグマン、マスタヴァといったトマト系スープにうまみやコクがよく出ていてよかったです。 マンティは餃子っぽいのですが、羊肉が使われてるのでちょっと癖があるかも。でも美味。肉もけっこう粗挽きな感で歯ごたえあり。
マンティはじめいろいろな料理にヨーグルトソースがついてくるのが日本人的には不思議だったのですが、料理が全体的に油多めなので爽やかなヨーグルトというのが合うんですよね。
と、こんな感じでサマルカンド観光1日目は終了です。
前回の記事の通り、2夜連続夜行列車で過ごしたんですが案外イケましたね…笑